*現当主への直接取材と、過去の雑誌掲載文から引用をもとに作成しています。

「井上清七薬房」の始まり

初代は「河内屋清兵衛」といい木綿問屋です。宝永(1704年から1711年)の初め、京都に風目(擬似トラコーマ)が流行します。このとき懇意の漢方医に眼薬の処方を教えてもらい、風眼に悩む庶民に無料でこの眼薬を分け与えたと伝わっています。眼洗薬は効果が大きく、評判が評判を読んだそうです。そこで清兵衛は本業の木綿問屋をあっさり閉めて、官許を得て眼薬製造に専念することになります。ここに「井上清七薬房」が始まります。時は宝永二(1705)年創業という古さで、現当主は11代目です。

「井上清七薬房」廃業

残念ですが、井上家は300年以上続く「官許」目洗薬屋を商っていましたが、昭和30年代に薬事法改正にともない”廃業”し現在は製造・販売しておりません。廃業の経緯は、「薬事法」の変更で製造設備の改修などが困難だったためだと伺いました。いわゆる「家庭薬」は製造工程を専門家に委ねたり、設備も近代化できないなどの事情がありました。厚労省に掛け合ったり、奔走したが上手く行かなかったそうです。

現存する建物の中に入ると、高い天井、太い梁、明かり取りの窓などがあり古めかしさを残していますが、この建物は蛤御門の変(1864年8月20日)ののちに発生した大火(どんどん焼け)で全焼した後に建て替えられたものになります。逆算すると築170年ということです。残念ながら製造道具はエイザイ記念館に寄贈され、ここには多く残っていません。戦前は、満州、台湾、ハワイまで商圏が広がり、繁盛していたようです。昭和初期には30人以上の従業員が製造販売に従事していました。
戦時統制時代に入り一時は配給ルートで全国に販売されていたそうです。
昭和26年に株式会社に改めています。先代の当主井上清七は「東洋医学で重要視された原料と、既に数百年間に亙る人体実験によって安全性が認められており、現在医学に照らしても極めて合理的な薬理作用と医治効能を有すること」を誇りにしていました。

偽薬「井上清七薬房」

偽薬も横行したそうです。他に見かける「井上**薬房」は全て模造品です。
辻売の得体のしれない薬を区別するために「官許の文字入りの看板を大きく掲げた」と語っています。

目洗い薬

この目薬は紅絹の布に包まれた可愛らしいもので今まで知っていた目薬とは全然違います。
効能は、ただれ眼、流行目、のぼせ眼、やに眼、かすり眼などです。

成分は、中国の本草綱目で眼病によく効くといわれている炉眼石(精製甘炉石、亜鉛、左の写真の壺の中に残っています)が主成分です。その他には、カンフル、梅肉、氷砂糖、酸化亜鉛などがあります。これらをハチミツで練り合わせペースト状にしたものを一つずつ「紅絹」に手で包みます。廃業するまでは蛤の殻に入れて販売したそうで、これがトレードマークだったそうです。
使い方は、二~三倍のきれいな水でもみだします。紅絹の中から乳液状のものがでてきます。それをまぶたの内側につけます。
一日数回点眼しますが、乳液状の液体がでる間はそれを使います。炉眼石に含まれる微量の金属イオンが徐々に効力を強めて殺菌消炎作用を発揮するように配合していました。

*本草綱目:中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作である。作者は明王朝の李時珍(1518年 – 1593年)で、1578年(万暦6年)に完成、1596年(万暦23年)に南京で上梓された。日本でも最初の出版の数年以内には初版が輸入され、本草学の基本書として大きな影響を及ぼした。Wikipediaより

眼病の坂本龍馬

坂本龍馬

一個2g入り500円(最後の価格)この眼洗薬のことは、平賀源内も書物に書いているということです。また、坂本龍馬(1867年12月暗殺)はしばしば眼病に悩まされ、歩いて10分ほどのこの店まで、井上目洗薬を買いにきたと伝わっています。
後年、薬効が痔にも効くとのことで評判であったとも聞いています。

建物強制撤去

「井上清七薬房」には数々の物語があります。特に、昭和20年8月15日玉音放送が流れた日、日本軍による強制撤去が実施され取り壊し作業が行われる予定でした、正にその当日に終戦となり「作業中止」となっています。京都は米軍による空襲の被害は免れましたが、焼夷弾による類焼を防ぐために計画的な家屋の取り壊しが行われたと聞きます。多くの町屋が強制撤去される中、「井上清七薬房」の家屋入り口にも「張り紙」が貼られ、家財の引越を済ませ取り壊しに備えていたそうです。「井上清七薬房」の町屋は奇しくも残ったのです。*参照「戦争のなかの京都」(岩波ジュニア新書)

強制疎開の対象となった理由は、目の前の小学校(元開智小学校、下京第11番組小学校、現京都市学校歴史博物館)を火災から守るためで、小学校の建物がコンクリートで避難先になっていたためだと推察します。撤去と決まり8月15日までの建物の部材(天井板など)は近所の人が焚付けに利用するために取り外し、何もない状態だったそうです。その為、戦後、建物を住める状態に戻すために2年間かかり、仮住まいでの生活を強いられました。

伊藤若冲の天井画

当家は東山仁王門にある信行寺の檀家です。月命日の7日には住職がお経を上げに来られます。信行寺の歴史を見ると、天井画を寄贈した人物として檀家総代の井上清六という人物の名前が上がっています。散逸を恐れて伊藤若冲の絵を古物商から買い取り、まとめて寄贈したそうです。時に19世紀後半とあります。

以下引用

”伊藤若冲が天明8年(1788)の京都大火で疎開した石峯寺(伏見区深草)で描いた観音堂天井画の一部。本来は182面を擁する大きな格天井であったが、観音堂は明治維新時の廃仏毀釈によって解体。天井画も解体され、古美術商に渡ったのち檀家総代の五代目井上清六が買い取り、167面は、京都市東山通仁王門の真行寺に、15面は義仲寺へと分割奉納された。”

伊藤若冲は近年評価が高まりましたが、明治時代廃仏毀釈の動きの中で消滅一歩手前だったことがありました。

時を重ね、今また取り壊しの危機のなかにあります。町屋はそこで生活する人々の暮らしの中から創り上げられた建物です。壊されると二度と修復されません。私たちは当主の意向を受けて京都に移り住み、この歴史的な建物を後世に残す活動が出来ればと考えています。このブログはその活動の記録のために残しています。

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