「戦争のなかの京都」

 

強制疎開のことが書いてあるだろうと図書館で「戦争のなかの京都」(中西宏次著、岩波ジュニア新書)を借りて読みました。幼いころから、アメリカは京都は文化財があるので空襲をしなかったと聞かされていましたが、実際には100人以上が何度かの空襲でなくなり、被災された方や家屋もあった事実が分かります。被害状況は大阪や神戸とは違ったかもしれません。ですが、戦時下での神社、寺院が率先して金属拠出を行わざるを得ず、文化財の保護のために苦心した姿も紹介とともに、民衆が逃げ迷った姿が映し出されています。*写真は山中油店の店頭に展示されている爆弾の破片

1944年7月に第1回目の建物疎開が京都でも実施され、その時のマニュアルが残っています。訪問時のあいさつ文を読むと、実に慇懃無礼な印象を持ちます。物腰は柔らかいが国家権力を盾に問答無用で立ち退きを迫っています。戦時下の行政の姿は無彩色で無機質、そうならずを得なかったのだという印象を持ちました。

当家が何故、建物疎開の対象になったのか?その答えを探していたのですが、1945年7月「第5次建物疎開」の項に、
”防空空地として耐火性のある鉄筋建築の周辺民家を除去し、当該建物の火災耐性を向上させるとともに、そこを中心とする避難拠点の構築をはかる”

目的でなされたことが分かりました。当時、京都市内の多くの国民学校がコンクリート造りだったのです。当家の目の前には開智小学校があったために対象になったという訳です。

そして、玉音放送の時に中止になった建物疎開の話しも別の所の話しですが紹介されています。

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