京町屋 旧「井上清七薬房」に見られる建物の特徴を紹介します。
軒の看板
「御めあらい」との看板が掲げられています。よく見ると、井上の家名を模した紋が見えます。*鍾馗さんがおいていないのは?お向かいが堅牢な造りの開智小学校(現京都市学校歴史博物館)だから、災難が来ないと踏んだとか?!その建物も令和4年耐震補強もされ、ますます堅牢になっています。
軒下に看板を吊るし、招きとしていた名残りが残っています。看板は何種類か残っており、取り替えて使っていたように想像します。
紅がら格子(紅殻格子、弁柄格子、べんがらごうし)
当家の格子は切子格子(きりこごうし)あるいは、子持格子(こもちこうし)などと呼ばれる親子格子です。通常は、横貫が3本ほど通り たての格子が2種類。太い格子を親格子、細い格子が子格子。これを 親子格子と言います。
また、当家の「格子」は、親1本に子1本(切子1本※)で構成された珍しいものです。
※上部が切られ短くなってます。
京都の格子は、応仁の乱の後、自衛のために設けられるようになったと言われます。細かな木を縦と横に組み合わせ、中からはよく見えますが外からは容易に見えないようにする防犯上の機能ももっています。
良く見ると痛みも進んでいるので、ベンガラ塗装に挑戦しようと思っています。
虫籠窓
「むしこまど」と読みます。二階の壁に見られるスリット状の格子を指します。
この町屋の外観は「厨子二階(つしにかい)」、または「中二階」と呼ばれる形式で、ミセノマの真上にあたる部屋の天井が低いことが特徴で、昔は主に物置や使用人の寝泊まりに使われていました。(今は何にも使われていません。ガランとした空間です。)
虫籠のような形をしていることから「むしこまど」と呼ばれます。漆喰で塗り込められた窓のことで厨子二階に多くみられます。火災が多かった江戸時代に防火対策として用いられ広まった。一説によると、庶民が武士を見下ろさないように設えたとも言われるが定かではないようです。火災の時に虫籠窓は内側から蹴破れるように作られているも聞きました。どういう仕組みなのかと聞いてみると、「土だけでできてる」と答えが返ってきましたが、詳細は不明です。
板壁
現在のサイディング外壁と同じ役目を持ち、風雨から妻壁を守ります。杉板が貼られているのですが、昔は厚みが7㎜(2分5厘)と薄く、30年も経つと痛みが目立つようになります。ですので、定期的に張り替えるようです。
ダメージが目立つ当家の外壁、内部への腐食が進んでいなければいいが。修繕しようとしたが、足場を作るのが大変で、瓦が破損することもあり思うように話しが進んでいません。この写真の壁はその後、トタン板で覆う工事がしています。趣きが無いのですが、維持費用が掛かるため致し方ありません。
一文字瓦
瓦の端を切り落としたような形で、連続して並ぶその様子は町並みに統一感をもたらし端正な印象を与るうと解説されています。そして、一文字瓦の厚さが富の象徴だとか?
昔から京町家の瓦は「一文字瓦」ばかりだと思っていたのだが、よく屋根瓦を観察すると当家の瓦は、店部分だけが「一文字瓦」でそれ以外は「饅頭瓦」で、こちらの方が多く見受けます。
大屋根
平入、切妻を基本とする大屋根で覆われています。
写真では「煙出し」が一番上に見えます。
瓦の大きさにも特徴があり「六四瓦(ろくしがわら)」という小さく薄い瓦を使っています。現代では一坪に54枚敷くのが普通だが、64枚で葺くというところからの名称です。
煙出し(けむりだし)
竈のある上部で、屋根の棟部分に開口部を設けて、その上に小さな屋根がつくられたものを煙出しといいます。竈などで炊事をした煙を屋外に出すものです。
通り庭から見上げた「煙出し」
表屋造
大きな商家に見られる間取りで、玄関、中庭を介して店舗と居住棟をつなぐ形式。当家もこの形式で建物が構成されています。街路に面した一室型の棟と主家の棟を、ゲンカンニワを介して別棟に分けます。この形状を表屋造りと呼び、街路側の棟を表屋と呼びます。部屋数を数えると2列5室型に分類される。
(イメージは当家とは異なります)
側面から眺めると「表屋造」の特徴が良く分かります。
扉
大戸
一番外にある潜り戸の付いた扉を「大戸」といいます。商いをしていた頃は、朝この戸を開け「ミセニワ」(店庭)への出入りが自由にできるようにしていたそうです。今は大戸は閉じられたままです。
日常使う「くぐり戸」は、締めると引き戸は動かなくなります。仕掛けは「くさび落し」が働き、オートロック構造になっているからです。調べると「コロロ(サル)」と呼ぶようです。板状のものが自動的に落ちてきて鍵の役目をする構造になっていると書かれています。
当主が子供の頃から壊れたことが無いそうで、シンプルだが堅牢な仕掛けです。
中戸(猿戸)
大戸の内側にある小ぶりな「中戸」。商売向きとは別の結界として設けています。また、構造上「さるど」とも呼ばれます。
由来は
”この潜り戸の内側の桟の上下二か所に「サル」という簡単な差し込み装置(かんぬき)がつけてあって、内側から戸を閉めるとき、この差し込みを鴨居と敷居に差すことで戸締りする構造になっているからです。”とあります。
「サル」
のれん(暖簾)
図案化された暖簾。表通りにかけていると痛みが激しいので、当家では「玄関」と「ハシリニワ」の間に掛けることが多いです。
「ハシリニワ」は玄関から奥までを貫く連続した土間のこと。おくどさんや井戸があり、現在の台所にあたる私的空間です。逆に商売が行われる「ミセニワ」は公的空間として扱われます。
「のれん」はこの「ミセニワ」と「ハシリニワ」とを区別する役割を「中戸」とともに担っています。
玄関庭
奥に細く長い町家は光と風が通りにくい町家において、庭は欠かせない存在。酷暑と言われる京都の夏、庭にたっぷりの水を打てば涼風を呼び起こし、家の中を心地よい風が通り抜ける。隣家と壁を接する住宅密集地の中で、光や風の通り道を確保しながら、暮らしに自然を取り込む工夫。見た目の美しさだけでなく、夏の蒸し暑さをもしのぐ先人の智恵がここにも垣間見られます。そそて、植栽は棕櫚竹(シュロチク)とシダが定番です。
当家では「ヒカリニワ」は作業スペースに改装されて存在していません。
通り庭
ハシリニワ
上部には火袋が広がっています。炊事場付近の壁には、火伏せの神様として「火逎要慎」と書かれたお札を貼ったり、布袋さんを並べる風習があります。
ダイドコの入口には「嫁隠し」が立っています。
火袋
ハシリの上部に広がる吹き抜け空間のことで、「ひぶくろ」と呼ばれる。炊事の熱気や煙を逃がす空間であり、火事の際に周囲への延焼を防ぐため火を上に誘導し閉じ込める役割を持っています。左右に開口部が取れないため、天窓を設け手元に灯りを落とすようにもしています。
行きかう梁の造形は、大工の腕の見せ所であり「準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)」と称されます。お寺に準じる小屋組の意味です。大店の火袋で側つなぎの上に牛梁や小屋束を見せる架構をいう。大黒柱よりも太い梁が使われており、それだけで贅を尽くした普請が伺えます。
釣瓶と井戸
この井戸は今は使われていません。 阪急が四条まで地下で通った時に出なくなったと聞きました。確か、この工事の時に祇園祭の山鉾巡行も中止になっています。
おくどさん
古来より炊事場は神聖な場所とされ、特に竈(かまど・くど)について京都の人は親しみを込めて「おくどさん」と呼びます。ちなみに大阪では「へっつい」と呼ばれます。「おくどさん」の近くには荒神棚が設けられ、三宝大荒神が祀られています。
また、愛宕神社の御札「火廼要慎」を方方に貼ります。愛宕さんは火伏せの神様なので、火の用心に通じます。
そして、貼るだけではなく、今も毎朝お参りは欠かさず行っています。
当家には「おくどさん」が3カ所。商いで目薬を製造するのに使っていたためで、煙突が途中でつながった構造になっているのも珍しいようです。
ハシリモト(流し)
当家の「流し」は、一枚の石から切り出されたものが備え付けられている。
京都では流しのあるところを「ハシリモト」といいます。昔、泉のことを走井(はしりい)といっており、そこから水を使う流しのことを「はしり」というようになったそうです。そして、井戸、水屋および竈のある場所全体をハシリニワといいます。
布袋さん
これも荒神棚。そこに「伏見人形」が7体並んでいます。この布袋さんは、背に「火」と書く『火防せの布袋』です。布袋さんは荒神さんのお使いです。小さい順に7体あるのは、毎年1体ずつ伏見稲荷で買うて揃えているからです。家の繁栄を願い、不幸がないように願い7年間無事だったことの証です。
昔は、子沢山のことを「棚の布袋さんみたいな」と言ったそうです。
埃をかぶったままなので、いつか払ってやりたい。
引窓
障子が貼られた建具は滑車を用いって上下できるようになっている
降ろした様子は引窓を降ろすで紹介しています。
*戸板を外す時は、真ん中の板を外すと取れるそうです。
*戸板は途中で電線に引っかかり、下まで降りません。この電線は離れのクーラー設置のために増設したものと思われます。
庭
せんざい(前栽)
オクの間(座敷)に面する庭をいいます。成長が遅めの常緑樹(松など)、夏と冬で花が長い樹木(椿、山茶花など)が植えられ、宿根の花も見られます。手水のほか、蹲踞、灯籠、井戸を配し苔で覆われています。維持するためには手入れを怠ることはできません。
小堀遠州の作庭と聞いています。
キリシタン灯籠
庭には多くの石が運び込まれている。それは富の象徴であったようです。また、片隅に隠れキリシタンのイコンが残る灯籠も据えてあります。
手水鉢、つくばい(蹲踞、蹲)
もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めたのが始まりです。茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用します。
他の手水鉢、つくばいの様子
写真は「降り蹲」だろうか?玉石を掘り出して洗ったという話しを聞いていないので、排水設備が施されえていると思っている。
水琴窟(すいきんくつ)
蹲踞の一つが、水琴窟だと聞いていますが、まだどんな音がするのか確かめていません。
茶室
写真の奥に茶室が見えます。長らく使用していなかったので、修復が必要です。この茶室の様式も由緒があると聞いています。終戦時に書が紛失し現存していませんが形式からいわゆる「道安好み」というものです。
(以下ネットからの引用)
「千利休の思想を受け継ぐ茶室は、四畳半を基本としており、天井はへぎ板網代の平天井、躙口側の半間は化粧屋根裏というシンプルで侘びた風合いの美しい茶室です。千道安は、茶室・道具・茶事などに独自の工夫を凝らしたとされており、道安囲い・道安風炉などが知られています。道安囲いは、点前畳と客畳の間に中柱を立て、仕切壁をつけてそこに火打口をあけた構成の茶室の一形式で、千道安の好みとして伝えられています。」
この他にも、店の中にも「茶室」があります。
その他
蔵
火事の時の延焼を防ぐとともに、家財を守る目的建てられています。
お宝が入っているのではなく、京都は夏と冬で建具(設え)を総取替えします。その一時保管のための倉庫です。現在はクーラーが各部屋にあり建具(設え)を入れ替えることもなくなりました。
いつも壁を見上げては痛みが進んでいるので「どうしたものか」とため息が出ます。
床の間の畳(床畳)
戦後まもなくの普請で、このこだわりはどうだろうか?
床の間の掛け軸は毎月入れ替えます。
網代編みの襖
桂離宮で見たことのあります。
葦戸(よしど)
夏になると(6月から9月)建具の替え、畳の上には「あじろ」を敷きます。季節や催事に合わせ、屋内の調度や飾り物を整えることを「しつらえ(室礼)」といいます。夏の室礼として籐筵、籐網代、御簾などと組み合わせます。
(イメージは当家とは異なります)
雛、五月人形
節句の飾りを以前は飾っていましたが、今は蔵に閉まったままになっています。
落ち着いたら復活させたいです。
蛍光灯の電源処理?
天井を見ると「不思議な構造の危惧が?」あります。これでよく電気が流れる?不思議な構造です。
箱階段
Web上の解説では
うなぎの寝床と称される京町家において、階段は住みに追いやられる存在。急勾配であり幅も踏み板も狭く、省スペースに作られているとか。時には押入れに隠されて収納と兼用されることも。階段箪笥とも呼ばれ、可動式のものや壁と一体になったものがあるようです。
とあります。当家ではダイドコの押入に設置されています。可動式で昇りやすい階段ですので特注だと思います。
大和天井
2階の床板を「ササラ」と呼ばれる小梁で支え、天井裏を作らず構造部をそのまま天井にした状態のもの。京町家においては、普段使いのミセノマとダイドコで多くみられます。
(写真は台所の天井)
大時計
台所に今は動かなくなった大時計があります
電話室
電話室のドアだけが残っています。