目次
はじめに
京町屋 「井上清七薬房」に見られる建物の特徴を紹介します。
建物は創業時の宝永年間(1705年)から当地にあり、その後、京都で起こった二度の大火(1788年の天明の大火、1864年の元治の大火)に会うたびに再建、改修を繰り返しています。

建物(表)
建物を外から眺めてみます。
母屋(北棟、オモヤ)
メインの建物になり4棟に分かれています。
一階部は表から店、玄関間、ダイドコ、居間、客間、仏間、奥の間など「商い」と居住スペースが広がっています。
看板

「商い」のために大屋根に掲げられた屋根付きの「おがみ看板」。「御めあらい」と消えかけた文字が読むことができます。よく見ると、井上の家名を模した紋も。

また、軒下に「木製看板」を吊るし、「招き」として利用していました。看板は商品の数だけ何種類か残っています。
紅がら格子(ベンガラゴウシ)
当家の平格子は切子格子(きりこごうし)あるいは、子持格子(こもちこうし)などと呼ばれる親子格子です。昔の資料を見ると毎朝の日課として格子一本一本埃をぬぐっていたとあります。格子戸は祭りや家の行事の時などに取り外せる仕組みになっています。
虫籠窓(ムシコマド)

「むしこまど」と読みます。二階の壁に見られるスリット状の格子を指します。
この町屋の外観は「厨子二階(つしにかい)」、または「中二階」と呼ばれる形式で、ミセノマの真上にあたる部屋の天井が低いことが特徴です。
一文字瓦(イチモンジガワラ)
瓦の端を切り落としたような形で、連続して並ぶその様子は町並みに統一感をもたらし端正な印象を与えます。
大屋根(オオヤネ)
平入、切妻を基本とする大屋根で覆われています。
写真では「煙出し」が一番上に見えます。

煙出し(ケムリダシ)
竈のある上部で、屋根の棟部分に開口部を設けて、その上に小さな屋根がつくられたものを煙出しといいます。竈などで炊事をした煙を屋外に出すものです。
大戸(オオド)
一番外にある潜り戸の付いた扉を「大戸」といいます。商いをする時は、朝この戸を開け「ミセニワ」(店庭)への出入りが自由にできるようにします。
日常使う「くぐり戸」は、締めると引き戸は動かなくなります。仕掛けは「くさび落し」が働き、オートロック構造になっているからです。調べると「コロロ(サル)」と呼ぶようです。
先代が子供の頃から壊れたことが無いそうで、シンプルだが堅牢な仕掛けです。
裏庭(ウラニワ)
オクの間(座敷)に面する庭。中央に大きな伽藍石(がらんせき)、奥に蔵が見えます

離れ(南棟、ハナレ)

大戸のある母屋(北棟)の南に隣接する建物、露地庭(茶庭)と茶室が設えています。表は早い時期にテナント貸をしていたため外面が創建時とことなります。
一番南角に「井上文化サロン」(文化教室)の入口があります。建物内は多くの区画が文化教室に改装され今に至っています。
茶室(チャシツ)

「露地庭」の奥に茶室が見えます。庭には成長が遅めの常緑樹(松など)、夏と冬で花が長い樹木(椿、山茶花など)が植えられ、宿根の花も見られます。手水のほか、蹲踞、灯籠、井戸を配し苔で覆われています。
茶室については終戦時に資料が紛失したため詳細は不明ですが、形式からいわゆる「道安好み」というものと聞いています。
織部灯篭(オリベドウロウ)
庭の片隅に隠れキリシタンのイコンが残る灯籠も据えてあります。これは桃山時代の茶人である古田織部が考案した石灯篭(キリシタン灯篭)です。
手水鉢、つくばい(蹲踞、蹲、ツクバイ)
もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めたのが始まりです。茶事を行うための茶室という特別な空間に向かうための結界としても作用します。
建物(中)
建物の中にカメラを入れてみます。現地調査をされた方から部屋数が47ありますと聞き、そんなにあるのかと驚きました。
母屋(北棟)
店土間(ミセドマ)
大戸の裏に石畳の土間があります。

中戸(猿戸、サルド)
大戸の内側にある小ぶりな「中戸」。商売向きとは別の結界として設けています。また、構造上「さるど」とも呼ばれます。
由来は
”この潜り戸の内側の桟の上下二か所に「サル」という簡単な差し込み装置(かんぬき)がつけてあって、内側から戸を閉めるとき、この差し込みを鴨居と敷居に差すことで戸締りする構造になっているからです。”とあります。
玄関庭(ゲンカンニワ)
奥に細く長い町家は光と風が通りにくい町家において、庭は欠かせない存在です。酷暑と言われる京都の夏、庭にたっぷりの水を打って、家の中に風を通します。植栽は棕櫚竹(シュロチク)とシダが定番です。
右に商い用の玄関間への沓脱石、ガラス戸があります。
通り庭(ハシリニワ)

「ハシリ(流し)」のある「ニワ」のことを「ハシリニワ」といいます。上部には火袋が広がっています。流しの並びにある「おくどさん」付近の壁には、火伏せの神様として「火逎要慎」と書かれたお札を貼ったり、布袋さんを並べる風習があります。
ハシリニワの並びにはある「ダイドコ」の入口には「嫁隠し」が立っています。
火袋(ヒブクロ)

ハシリの上部に広がる吹き抜け空間のことで、「ひぶくろ」と呼びます。炊事の熱気や煙を逃がす空間であり、火事の際に周囲への延焼を防ぐため火を上に誘導し閉じ込める役割を持っています。左右に開口部が取れないため、天窓を設け手元に灯りを落とすようにもしています。
この小屋組みは大工の腕の見せ所で「準棟纂冪(じゅんとうさんぺき)」と称されました。「お寺の棟に準じなぞらえて架橋をあつめ覆う小屋組」という意味だそうです。
釣瓶と井戸(ツルベ)

阪急が四条まで地下で通った時に水が出なくなり使われなくなっています。
おくどさん(ヘッツイサン)

当家には「おくどさん」が3カ所。
商いで目薬を製造するのに使っていたためで、煙突が途中でつながった珍しい構造になっている。また、燃料となる薪は屋内ではなく蔵の周りに置き場を設けていました。仕入れ原料の梱包材なども余すことなく流用していました。
流し(ハシリモト)

当家の「流し」は、手の込んだ「人造研ぎ出し仕上げ」のものが備え付けられています。
布袋さん(荒神棚、コウジンダナ)

これも荒神棚。そこに「伏見人形」が7体並んでいます。この布袋さんは、背に「火」と書く『火防せの布袋』です。布袋さんは荒神さんのお使いです。小さい順に7体あるのは、毎年1体ずつ伏見稲荷で買うて揃えているからです。家の繁栄を願い、不幸がないように願い7年間無事だったことの証です。
引窓(高窓、タカマド)

障子が貼られた建具は滑車を用いって上下できるようになっている この窓は当家の特徴になると思うのだが、何故このようは大きな窓が設えられたのかというと、大釜で「めあらい薬」を作る過程で蜂蜜を煮る、この熱気を逃がすためです。
離れ(南棟)
応接間(洋間)
座敷から洋間に改修され事業用の「応接間」として使用されていました。廃業と共に時間が止まり、昭和の雰囲気がそのまま残っています。

座敷 床の間(床畳)
床の間の掛け軸などは毎月入れ替えます。







