開かずの間

これは離れ(南棟)一階部の図面 この二階部分の図面が次に

黄色く塗る潰している部分が「開かずの間」、どこからも入れない謎の空間があります。
何故このようなことになってしまったのか?

糸口は古い図面に「空地」と表記されている部分が丁度この区画にあたります。何故「空地」を設けたのか?当初お地蔵さんでもあったのかなと思っていたのですが、実際に文化教室の入口を入ってよく見ると左右に扉の跡らしきものが残っています。

こちらは隣家への出入り口?
そして、こちらは反対側

下足箱になっているが壁の向うはドアが残っています。壁の厚みもそこそこありそうです。
ということは左右に入口があったということになります。空地を挟んで「勝手口」が正対していた、屋根は軒が張り出しているので雨に濡れなかったように思える。

古い写真を見ると建物の前は駒寄が続き、道路側には大きな出入口がなかったように見えます。
調べると、南に接する建物はもともと所有しており家族が生活し母屋と頻繁に往来があった聞きます。時代が移り商売が上手くいかなくなり、切り売りや家族の離散があり戦後にはテナント貸となり建物改修が進んでいきました。
現在は文化教室の入口となっていますが、元は「空地」で外だったというのが正解のようです。入り口の板間は元は「土間」だったとも聞いています。
過日、2階の「開かずの間」が覗けるかと隣りの部屋の壁をめくってみましたが

土壁がしっかりとありました。
戦後の改修時にもこの土壁を落とす判断ができず。又、外壁を凹型に養生する手間よりも前面にベニヤ板を貼ったほうが安上がりだと判断したのだと考えます。
さて、文化教室の入口を新しくしたいのだが、どうしたものか?
ベニヤ板の外壁は撤去したほうがいいですね。
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